「長谷川等伯展」(東京国立博物館)

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東京国立博物館で(本日まで)開催中の長谷川等伯展」に行ってまいりました~。
等伯没後400年を記念して開催されたこの企画展は会期が短かったのですが、どうしても見逃したくなかったので、会期終了前日の昨日、ようやくすべりこみセーフ!
三連休の中日ともあって、大変な混みようでしたが、満足度高し。
来月からは京都国立博物館に巡回するので、東京で見逃した方は お花見もかねて京都へ行きましょう!(笑)
 
等伯といえば日本美術の超メジャーな巨匠ですが、大規模な回顧展は今回が初めてだそうで、能登を中心に北陸に残っている仏画も十数点出展されています。(ほとんどの作品が京都や北陸の寺院所蔵なので、お寺さんとの交渉がさぞや大変だっただろうと思われます)
等伯の作品が系統立ててわかりやすく展示されたこの企画展、等伯の波乱万丈の生涯を知った上で鑑賞したほうが数倍楽しめます。
 
長谷川等伯(1539-1610)は、桃山時代~江戸初期に活躍し、御用絵師・狩野永徳と並び 桃山絵画の双璧と称される絵師です。
能登半島の七尾に生まれた彼は、法華宗仏画師・長谷川信春としてそのキャリアをスタートさせます。才能と野心にあふれる青年絵師は地元でのささやかな評価に飽き足らず、養父母の死を機に33歳で妻子を連れて上洛。おそらく狩野派に入門していたであろうともいわれる17年間の雌伏の時期を経て、51歳の年に大徳寺三門の障壁画制作によって中央の画壇へ躍り出ます。翌年には御所対屋の障壁画制作をめぐって狩野一門と対立。結局、永徳の必死の妨害工作で障壁画制作は頓挫しますが、この事件は無名の絵師だった等伯狩野永徳を脅かすほどの実力を持つようになっていたことを象徴する事件でした。その後、理解者であった利休の自死・長男久蔵の急死といった私生活上の不幸が続く中でも、等伯は順調に画壇のメインストリームを歩み続けます。1610年、時代はすでに豊臣から徳川の世に移っていた72歳の年、等伯は家康の招きで江戸に下向する途中に発病し、江戸に到着した二日後に波乱に満ちたその生涯を閉じます。
 
能登時代の等伯仏画を観て驚かされるのは、その精密な線描と華麗な彩色です。地方絵師の仏画にしてはいい顔料を使っているんじゃないかと思いましたが、等伯の生まれ育った七尾は、当時は畠山氏の領地で「小京都」と呼ばれるほど経済的・文化的に豊かな土地だったそうです(前田家の加賀百万石より前の時代ですね)。
特に日蓮上人像」(高岡市・大法寺所蔵)は、この青年絵師の才能がすでに非凡なものであったことを示す華麗な作品ですが、この画を前にしたとき、良質の画材をふんだんに使えるだけの環境にいただけに、このまま地方絵師で終わりたくない!という信春の切実な思いが伝わってくるよう気がしました。
 
上洛後17年ほど信春の消息は知られていませんが、おそらく菩提寺法華宗ネットワークで生活の基盤を得つつ狩野派で技術とセンスを磨き、人脈づくりに励んでいたのかな~??
彼の名前が再び日本美術史に登場するのは1589年、51歳の年。「人間、50年から」と誰かさんもおっしゃってましたが、等伯はまさに50歳を過ぎて人生の表舞台に生きた人でした。
 
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「波濤図」(京都・禅林寺
金泥の地にモノクロームコントラストが斬新!この作品の直前までわりと地味~な展示が続いていただけに、この画を見た瞬間惹きこまれてしまいます。
画像が小さくてわかりづらいのですが、直線的でエッジの効いた岩と、うずまく浪の線描が観る者に強烈なインパクトを与える屏風図です。モノクロの線描の可能性に挑んだ意欲作です。図録にも書いてあったけど、大胆な金泥の使い方とか、このシャープで自在な線描、リズム感みたいなものは、やはり琳派へ与えた影響の大きさがうかがわれます。
↓の金壁画の草花なんて、もうちょっと上代風の抒情に向かうと宗達が出てきそうな感じがしませんか?
 
 
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 「松に秋草図」(京都・智積院
鶴松の菩提を弔うために、秀吉の命で祥雲寺(廃寺・現在の智積院)の障壁画として描かれたこの作品、金泥の地に繊細な線描で伸びゆく松と木槿の花が画面いっぱいに描かれています。
とても美しい、人垣の間からこの作品が見えた瞬間、息をのむほど華麗な画ですが、金色の雲がたなびく天上に向かって伸びていく松(=鶴松)と、松を包みこむように咲き乱れる白い花々は、幼くして亡くなった子どもの姿を象徴しているようでもあり、子を亡くした親の悲しみの表れのようでもあり。
やはりこれは弔いの画・・・制作の由来を知っているだけに感情移入しちゃいますね。狩野派の華麗さを持ちつつも狩野派にはない叙情性・繊細さは、たしかに永徳にとっては脅威だったのでしょう。
 
 
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「仏涅槃図」(京都・本法寺
幅6メートル・高さ10メートル近い巨大タペストリーは、東博の天井高をオーバーし、下の動物たち3メートル分くらい だらん、と床に広げて展示。熱心な法華宗信徒でもあった等伯は、菩提寺の本寺・本法寺落成に際してこの涅槃図を寄進したといわれています。ありがたやありがたや~~。
能登時代の涅槃図と同じ構図だけど、等伯お得意の精密な線描が存分に発揮されていて、動物たちも神様もひとりひとり(?)が表情豊かです。画像が小さくて見えづらいですが、手前の青唐獅子の前にはダルメシアンやコリーのような洋犬の姿も。この企画展は、水墨画とか仏画とかが続いてそろそろ集中力切れ気味・・・・・・というタイミングでこういう作品をどん!と出してメリハリつけているのもいいですね(笑)
 
 
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そして最後に真打登場。
「松林図」(東京国立博物館蔵)
この松林は、等伯の生まれ育った七尾の海浜の松林ではないか・・・と私は思います。新潟市の海岸にも防風林があるのですが、そこの松がちょうどこんな形に伸びているからです。でも、上には上がいて、私と同じことを考えた ある人は新潟の松林なんかでは納得せず、休暇を利用してわざわざ早春の七尾まで赴き、ちょうど朝靄のかかるであろう早朝に「張り込み」を実行したのだそう。で、その「裏づけ」を以って「松林図=七尾説」にこだわりたいと思います。(笑)
この「松林図」、2008年夏の「対決・日本美術の巨匠たち展」にも出展していたのですが、「対決展」に比べて、ややこじんまりとした印象でした。展示のしかたによって印象が変わってしまうのでしょうか。
墨の濃淡だけで、「描いていない」はずの靄と光を表現し、薄明るい光に包まれているような不思議な作品です。この画面全体に漂う水蒸気をたっぷり含んだ空気感は、やはり湿度の高い日本海側に生まれ育った等伯の皮膚感覚と無縁ではないでしょう。その一方で近景の松の梢を表す、紙を破るのではないかと思われるほどの力強い線描、墨づかい。等伯水墨画って、一見やわらかいけれど、近づいて観ると荒々しいまでの大胆な線描を使ってるものが多いですね。離れてみるとスモーキー。「墨の魔術師」というコピーが納得です。
 
<本日のおまけ>
等伯没後400年記念事業にあわせて出版された「別冊太陽・長谷川等伯」(平凡社)も、錚々たる執筆メンバーが等伯の生涯や代表作を時代背景も含め、わかりやすく解説していてオススメです。
特に鈴木廣之の「神品・松林図を描く」は、松林図=下絵説に踏み込んだもので、紙の継ぎ目から「松林図」本来の構図を論考するというユニークなもの。とかく等伯の不幸な私生活と結びつけて語られがちな「松林図」の受容のありかたについても、「少なくともそれ(本来の画面)は、この屏風絵の印象批評にありがちな一種センチメンタルな叙情性とは無縁のはずだ」と批判的。絵画の鑑賞で陥りがちな「私小説的」な観かた(↑例.「山猫軒日乗」)をしていると、ガッツリ どついてくれます。(笑)