「停電の夜に」(ジュンパ・ラヒリ/新潮文庫)

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この人の作品は、読むこと自体が快感だ。
1967年生まれ、ニューヨーク在住のインド系女性作家ジュンパ・ラヒリは、2000年にこの短編集でデビューしてまもなく、新人作家としてはきわめて異例のピュリッツァー賞受賞という、はなばなしいスタートをきった。
全編を通して何か大きな事件が起きるわけではない。故国を遠く離れて暮らす間に、夫婦や親子など身近な人間関係の間に生じた小さな亀裂を、作者は緻密な観察眼と静謐なタッチで描いていく。
表題作「停電の夜に」は、工事のために停電になった室内で、若い夫婦がロウソクのあかりを前にそれぞれ胸に秘めていた小さな秘密を告白し合うというもの。透明なガラスのコップに入ったわずかなひびが 気づかないうちにすこしずつ広がっていくように、日々の暮らしのなかで二人の心が次第に離れていった様子が、小さな打ち明け話とともに、ロウソクの揺らめきの中に照らし出されていく・・・。ラストで予想(期待?)をさらっと裏切られるころには、冷静でせつないほどにきめ細かな筆致にすっかり魅せられている。
9編の短編のうち、一番心に残ったのは「三度目で最後の大陸」。インドを離れてロンドンの大学に留学し、アメリカの大学図書館で司書の仕事についた主人公が、故国から新妻を呼び寄せて暮らし始めるという、ただそれだけの物語なのだけど、この作家の美質が静かに光る作品だ。
知らない土地で新しい生活を始めた最初の日。最低限の食器と食べ物を買って、来る日も同じものを食べて同じベッドで眠って起きて、そろそろと歩みを進めていく。ふとしたことをきっかけに、それまでまったくの他人同士だった相手との間の氷が溶けていく瞬間のかがやき。
そんな一歩一歩の繰り返しこそが、人生の長い旅の行程なのだ。生きている、という「どれだけ普通に見えようと、想像を絶すること」への実感がそこにはある。
読み終わったあと、胸のうちが透きとおった水で静かにみたされていくような小説に、ひさしぶりに出会えた。