「生きて愛するために」(辻邦生/中公文庫)
このところ、どこに行くにも辻邦生の文庫本をバッグに持ち歩いている。
通勤の電車の中、仕事帰りのカフェでのひととき、彼の言葉にふれることで、あわただしい日常から解放され、ささやかな幸せを感じられる気がして。
西行の生涯を扱った小説「西行花伝」も、本当は桜の季節に出したかったが、病気のために延びてしまった。しかし、今はそれでもよかったような気がしている。というのは、春ごとの桜も嬉しいが、季節とは別に、いつも咲く心の花がさらに楽しい気がするからだ。禅語で「一花開イテ世界起ル」というが、その語を聞くと、この世が爛漫と咲く桜に包まれているのが見える。この世がなくなっても、花だけは咲きつづける。そんな感じさえする。
われわれは日常生活のなかであくせくと生きているが、心の眼を澄ますと、こうした花盛りのなかにいるのが見えてくる。実は、この世にいるだけで、われわれは美しいもの、香しいものに恵まれているのだ。何一つそこに付け加えるものはない。すべては満たされている――そう思うと、急に、時計の音がゆっくり聞えてくる。万事がゆったりと動きはじめる。何か幸せな実感が心の奥のほうから湧き上がってくる。
もう自分のことをくよくよ考えない。すべてが与えられているのだから、物質的にがつがつする必要はない。この世に太陽もある。月もある。魂の仲間のような星もある。信じられないようなよきものに満たされている。雲がある。風がある。夏がきて、秋がくる。友達がいる。よき妻や子がいる。たのもしい男がいる。優しい女がいる。うまい酒だってあるではないか。
われわれの胸にときどきそんな充実した静かな幸福感が満ちてくることがある。
「一花開イテ世界起ル」という心持ちが、ふっと胸のなかを横切ってゆくといったらいいだろうか。
「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」
という西行の心は、まさしくこうして花や月に幸せな充実感を味わい、死をすらなにか美しいものと受けとっている思いなのである。
美の陶酔には死の前味(アヴァン・グー)があるというが、本当は、胸を至福で満たす甘美な恍惚感は、すべてをよしと引きうける喜ばしい心なのだ。そこでは死すらも乗り越えられる。西行の「願はくは」という言葉の響きには大自然に帰一する安堵の思いも感じられる。
-「願はくは花の下にて」-
引用した「願はくは花の下にて」は、辻邦生の小説のテーマのひとつである「生きる喜び」が端的に表れたくだりなのだけど、こうして書き写すことで作家の言葉をじかに体感してみると、辻邦生は自分に残された時間がそれほど長くないのを知っていたような気すらする。それでも、行間から美しい言葉や限りある生の喜びが、きらきらと湧き出てくるようだ。
あわただしい毎日に追われ、思うようにいかないことが続くとき、先のことを考えすぎて不安に陥るとき、彼の小説やエッセイを読むことで、どれだけ救われたことか。
夜の住宅街を歩いていて、梅や沈丁花の香りにふと足を止めるとき、よく晴れた休日に近所のパン屋さんに焼きたてのパンを買いに行くとき、昼下がりに部屋で本を読んでいるとき、遠いところにいる人の無事息災を願うとき、たしかに私は静かに満たされているのだと、足もとの幸福を見つめなおすことができるようになった。今あるものを謙虚に受け入れようと思えたことが、この世では一度も会うことのなかった辻邦生からの「贈りもの」かもしれない。